現在地の西側道路の国道53号線(柳川筋)に、当時岡山城主であった小早川秀秋が城下町の西の惣構(そうがまえ)として築いた外掘がありました。 延長約2.5kmある外掘を二十日間で完成させたため「二十日掘り」(はつかぼり)と呼ばれるようになったと伝えられています。
外堀には5つの門があり、その一つである「山崎町口門」が現在地付近にありました。外掘の内側の中山下付近は「三之外曲輪(さんのそとぐるわ)」とよばれ、多くの武家屋敷があり、外堀の外には大雲寺、蓮昌寺、観音寺、薬師寺といった大きい寺院がありました。
現在地の北側の道路の一部は西国街道という、京都(東寺口)から西国(下関、九州まで)へ至る江戸時代の重要な幹線道路がありました。
1945年(昭和20年)6月29日午前2時43分、岡山の空に1機目のB-29(爆撃機)があらわれて焼夷弾(しょういだん)を落とし始めました。空襲は午前4時7分まで続き、その間に138機のB-29が約9万5000発もの焼夷弾を落としました。大量の焼夷弾が落とされ、岡山の町は大火災となりました。少なくとも約2,000人の人が亡くなり、さらに多くの人が火傷やけがなどをしました。アメリカ軍の報告によると、当時の市街地の63%が焼けてしまいました。
左の写真は1945年(昭和20年)7月5日に撮影された岡山空襲後の岡山市街地で、白い部分が焼失場所です。私たちはこの記憶を忘れることなく、受け継ぎ、もう2度とこのようなことが起きないよう平和に向けて努力を続け、また焦土(しょうど)から見事に復興させた人々のことも忘れてはなりません。
終戦後の混乱も一段落した昭和30年代前半(1950年代後半)から、岡山市は都市計画事業に着手し、市内は主要幹線道路の拡幅工事が始まりました。柳川交差点も半径約60mのロータリー状に整備され、周辺にはビルが新築され、戦後の復興を遂げました。
当時は道路上には電柱がありましたが、現在「電線共同溝」により、電力線・通信線を地下に収容し、道路に電柱がない快適な歩行空間の確保、景観の向上を図ることが出来ています。星をイメージした大きな広告塔のあるビルが、現在地の「ハレクロスタワー」です。
【事業名】岡山市中山下一丁目1番地区第一種市街地再開発事業
【地域・地区】商業地域・防火地域・高度利用地区・自動車駐車場附置義務条例適用地区・自転車駐車場附置義務条例適用地区
【建築概要】敷地面積 2,681.12㎡ / 建築面積 1,833.41㎡/ 延べ床面積 23,689.55㎡ / 容積対象床面積 17,773.61㎡ / 建ぺい率 68.39% / 容積率 662.92% / 構造 鉄筋コンクリート造 一部鉄骨造 基礎免震構造 / 階数 21階建て / 最高高さ 77.7m (塔屋含む)
【主要用途】共同住宅・店舗・診療所・住宅型有料老人ホーム
【駐車台数】114台
【開放広場】1階 はれの広場 4階 屋上庭園
【コンサルタント】株式会社地域デザイン
【設計・監理】株式会社アーキスコープ
【建築工事】株式会社竹中工務店